公開日 2026.04.01

教員・研究者紹介

法文学部 言語文化学科 宮澤 文雄 准教授​

「言葉にならない思い」に寄り添う、
「文学の持つ力」を探し続けて​

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 「文学には、言葉にできない思いに寄り添う力がある」。そう語るのは、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の研究を続ける宮澤文雄准教授です。小泉八雲(以下、八雲)は1850年にギリシャで生まれ、アイルランドで育ち、アメリカで新聞記者や作家として活動した後、1890年に日本を取材するため来日しました。松江での英語教師時代を経て日本文化に深く傾倒。帰化して「小泉八雲」と名乗り、紀行文・随筆・評論・再話と幅広いジャンルで数々の著作を残しました。世界中で今なお広く読まれ続けているのが、「耳なし芳一の話」や「雪女」などを収めた『怪談』(1904年)。八雲の描く怪談は、単なる恐怖の物語ではなく、死者と生者、過去と現在をつなぐ霊的な文学として愛され続けています。

 日々、八雲の研究を深める宮澤先生ですが、研究の道を歩み始めたのは、実はまったく別のきっかけでした。高校時代はスポーツ一筋。しかし練習中の大怪我によって夢を断たれます。行き先を見失い、祖母の暮らす山形で農業を手伝う日々の中で「農業は知恵を使う営みだ」と気づいた宮澤先生。そして農業の傍ら読書にのめりこむ体験を経て大学へと入学し、アメリカ文学を専攻するに至ったのです。
 大学院時代に東日本大震災を経験したことは、現在の研究へとつながっているといいます。自らも被災したことで、胸の奥に犠牲者や遺族に対する複雑な思いや葛藤が残り続けたという宮澤先生。その思いを抱えたまま年月が過ぎ、2014年に島根大学に着任します。

 当初は自身の専門分野に取り組んでいましたが、八雲の作品のひとつ「阿弥陀寺の比丘尼」を読んだ時に、子を失った母の無念さと嘆きが震災で言葉にできなかった思いと重なり「長く抱えていた感情に、八雲の作品から言葉を与えてもらった気がしました」。こうして「自分の心の奥にあったものを代わりに語ってくれている」と感じた体験が八雲研究を深める原点となりました。
 八雲が松江に滞在したのはわずか1年3か月ですが、その時期に妻セツと出会い、日本での生涯を送る基盤を築きました。八雲が日本に来て最初に手がけた紀行文『知られぬ日本の面影』などの著作には当時の松江の街並みや庶民の暮らしが描かれており、今なお松江の町のあちこちでその気配を感じることができます。「現地で作品を読むことで、八雲と自分がつながる感覚があるんです。それは当時の面影を今も残している松江でしかできない研究だと思います」。

 さらに研究は、学問の枠を超え、地域に広がっています。八雲の松江時代の同僚で友人だった西田千太郎の旧居では、宮澤先生自ら草むしりから始め、やがて町内会と連携して修復・保存活動に取り組むように。家の中からは、日記や書簡、学習ノートなど、明治から昭和にかけての松江の歴史を一家族の視点から見ることができる膨大な資料が見つかりました。発見された資料は、大学で整理・調査が進められ、八雲研究や地域史にとって新たな価値を生み出しています。また、学部基幹プロジェクトを活用して学生と被災地を訪問したり、大学図書館で企画展を開催したり。創立20周年を迎える「島根大学ラフカディオ・ハーン研究会」の学生部では、日めくりカレンダーの作成や紙芝居の口演を行うなど、学生とともに八雲を題材にした文学の可能性を探る活動も続けています。
 これらの活動について「自分なりの方法を模索しているだけなんです」と穏やかに語る宮澤先生。その奥には「八雲を研究する」ということをきっかけにして、文学と自分との間につながりを見つけてほしい、そしてその中で発見した自分の課題についてじっくり考えてほしいという思いがあります。「文学とは、過去を読むための営みではなく、今を生きる私たちに寄り添い、未来の道を照らす灯です。新たな可能性をひらく力―それが文学の本質なのです」。現代の文脈で文学を読み解く宮澤先生の研究と活動は、地域や学生たち、誰もが自分の物語と向き合うきっかけを与えてくれます。

※本記事は、以前に広報しまだい62号(2025年12月号)で公開された記事をもとに再掲載しています。

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